「税負担の公平性」という言葉を、私たちは何度も耳にしてきた。
所得が多い人はより多く税を負担すべきだ、資産を持つ人は社会に還元すべきだ――確かに一理ある。だが、その議論を聞くたびに、私の中には拭えない違和感が残る。
なぜ、努力の公平性については、ほとんど語られないのだろうか。
結果だけを見て、プロセスを見ない社会
税の公平性の議論は、ほぼ例外なく「結果」に焦点を当てる。
年収はいくらか、資産はいくらあるか、消費はいくらか。すべて数値化でき、比較しやすいものだ。
しかし、その結果に至るまでのプロセスは、ほとんど顧みられない。
・何年も不安定な収入に耐えた
・時間や健康を削って勉強や仕事に没頭した
・失敗や損失を何度も経験した
・周囲に理解されず孤独な判断を続けてきた
こうした目に見えないコストは、議論の土俵にすら上がらない。
結果だけを切り取れば「持っている人」だが、そこに至るまでに支払った代償は人それぞれであり、決して平等ではない。
努力は自己責任、成功は再分配対象という矛盾
現代社会には、暗黙の前提があるように思える。
-
努力した苦難や用いた時間 → 自己責任
-
努力して成功した → 社会のおかげだから再分配すべき
この構造は、一見すると公平に見えるかもしれない。だが、冷静に考えると非常に都合が良い。
失敗や不遇の期間は個人に帰属させ、成功した瞬間だけを「公共財」のように扱う。
これは言い換えれば、失敗は個人のもの、成功は社会のものという考え方だ。
だが本来、成功とは失敗と挑戦の積み重ねの上にしか存在しない。
その前半を無視し、後半だけを切り取って評価することに、果たして誠実さはあるのだろうか。
努力が評価されない理由は「見えない」から
努力の公平性が語られにくい理由は明確だ。
努力は数値化できない。
人によって内容も重さも違う。
比較も評価も難しい。
一方、税は数字で語れる。
だから議論は必然的に「いくら稼いだか」「いくら持っているか」に集中し、「どうやってそこに至ったか」は切り捨てられる。
だが、測れないからといって、存在しないことにはならない。
むしろ、社会を前に進めている原動力の多くは、数値化できない努力の集合体だ。
努力の公平性を無視した社会の行き着く先
もし、努力が評価されず、成果だけが奪われる構造が続けばどうなるか。
・挑戦する人は減る
・リスクを取る行動が合理的でなくなる
・「頑張っても報われない」という認識が広がる
・最初から分配される側に留まる方が得になる
結果として、富や価値を生み出す人が減り、再分配の原資そのものが細っていく。
皮肉なことに、いわゆる「公平」を強く求めすぎることで、社会全体が貧しくなる可能性すらある。そうして国としての富は減少していき、貧すれば鈍するという悪循環に陥る。
本当に守るべきは「結果」ではなく「構造」
重要なのは、結果の完全な平等ではない。
・挑戦できる機会があるか
・失敗しても再起できるか
・成功した場合、十分なリターンを保持できるか
この構造的な公平性が保たれているかどうかだ。
努力すれば必ず成功する社会など存在しない。
しかし、努力して成功した場合に、それが正当に報われる社会でなければ、人は努力しなくなる。
努力の公平性を語ることは冷たいのか
努力の公平性を主張すると、しばしばこう言われる。
「弱者切り捨てだ」
「冷たい考え方だ」
だが、これは誤解だ。
努力の公平性を認めることは、努力できない人を否定することではない。
それは単に、努力した人を否定しないという姿勢にすぎない。
助け合いと努力の尊重は、本来両立できる。
問題は、そのバランスが意図的に崩されていることだ。
この違和感を持ち続けることの意味
「税負担の公平性というけど、努力の公平性は無視される」
この違和感は、決して利己的なものではない。
むしろ、社会が持続可能であるために必要な感覚だ。
努力・挑戦・リスクを取る行為が尊重されなくなった社会は、いずれ誰も挑戦しなくなる。
そしてそのツケは、静かに、しかし確実に、全員に回ってくる。
公平とは、結果を均すことではない。
人が前を向いて進もうとする動機を壊さないことだ。
この視点が欠けたまま語られる「公平」は、果たして本当に公平なのだろうか。