ショートショート:備えの人

男は、用心深い人物だった。

 

若い頃、彼は世界がいかに不確実で危険に満ちているかを知った。

戦争、恐慌、疫病、天災、金融危機。

歴史書を読めば読むほど、「何が起きても不思議ではない」という結論に至った。

 

そこで男は、備えることにした。

 

まず、現金を用意した。

だがインフレが怖くなり、金と不動産を加えた。

不動産が崩れる可能性を考え、海外にも分散した。

国の信用が揺らぐ未来を想定し、暗号資産も持った。

暗号資産のカウンターパーティーリスクを警戒し、複数の取引所とウォレットに分けた。

 

それでも安心できなかった。

 

取引所が破綻するかもしれない。

国家が規制するかもしれない。

世界的な大地震が起きるかもしれない。

隕石が落ちる可能性だって、ゼロではない。

 

男はさらに備えた。

 

非常食を備蓄し、発電機を買い、避難計画を立てた。

万が一に備え、複数の国に住めるよう書類も整えた。

病気に備え、最高水準の医療保険にも加入した。

 

備えは完璧に近づいていった。

 

だが、男は忙しかった。

備えるための調査、計画、更新、見直し。

「楽しむのは、すべてのリスクに備えてからだ」

それが彼の口癖だった。

 

やがて男は年を取った。

 

世界は何度か揺れたが、致命的なことは起きなかった。

市場は暴落し、回復し、また暴落したが、男の資産は普通に持ちこたえた。

地震も戦争も、男の生活を直接壊すことはなかった。

 

男は少し安心した。

 

「やはり備えは正しかった」

そう思いながら、次のリスクを探し続けた。

 

ある日、男は静かに息を引き取った。

病気でも事故でもなく、ただ年齢によるものだった。

 

葬儀のあと、親族が彼の部屋を整理した。

分厚いファイル、詳細な計画書、完璧なリスクシナリオ。

非常食は期限切れ寸前で、発電機は一度も動かされていなかった。

 

誰かがぽつりと言った。

 

「結局、何も起きなかったね」

 

もう一人が答えた。

 

「いや……」

「何も起こらなかった、のかもしれないね」

 

男は、すべてに備えた。

ただ一つ、人生を楽しむことだけには、備えなかった。

男の最大のリスクは、最後まで「備える側」に立ち続けたことだった。